【旧blog記事】論理的な文章について
2012年05月27日
・論理的な文章について
「結論としての主張(A)」と「結論(主張)を支えるもの(B)」があって、
Bを読んだら「なるほど、それならAという結論になるな」というような、
理屈の述べ方に説得力がある文章が論理的と言えます。
ただ、人の感性は様々で、その論理が絶対的に正しいということは
ないでしょう。
「ウサイン・ボルトは100mを9秒58で走る。
皆もウサイン・ボルトと同じ”人間”だから100mを9秒58で走ることができる」
これを見て「なるほど!その通り!」と思う人もいるかもしれませんし、
「いや、それは何かおかしくね?」と思う人もいるでしょう。
例がとても極端ですが、何かを述べるときは理屈という土台の上に
主張を乗せたいと俺は思います。
人の能力は千差万別、個体差はあって然りなので、それは今更前提として置く必要もない。
個体差には環境差も含まれる。歯を食いしばりながら「絶対負けねぇ」と言えるのも
それなりに恵まれた環境に身をおいてるからである。
以前、少し関連がある話をしました。
少なくとも頑張れる環境に身を置いているなら、「諦める」か「諦めないか」という話になってきます。
脳内物質も遺伝子の影響を受けていて、先天的に何かに依存しやすい脳を持った人が
いるかもしれないので、そこは例外として捉えて頂ければと思います。
頑張れる環境に身を置いていて、やる気もある となれば、
後は努力の方向性を間違えないようにするだけです。
自分のポリシーを曲げてまで練習を効率化していったら、
どこかで破綻しますから、まずは練習に自分なりの「楽しさ」を
見出すのが良いでしょう。
長々と書いてしまいましたが、自分が言いたいのは「個体差の観念が
抜けてる話は説得力が欠けてるよね」ということです。
アドバイスする側がそれを考えられないとただの傲慢です。
「ポップンの白青同時押しなんて小指と親指使えば余裕っしょ」なんて言った日には
( ^ω^)凸ファッキン って言われておしまいですよね。
YESスマートNO傲慢
※一部省略しています。